「ランボー ラスト・ブラッド」ネタバレ 駄作として貶すか、蛇足として楽しむか。お前が決めろ。(僕は決めた)

ランボー ラスト・ブラッド
劇場公開日 2020年6月26日

僕はスタローンが好きだ。

 

僕だってやりたい!シルべスター・スタローン作品ベスト10(2016年2月現在)
2016年2月20日に行われた、ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルの企画に乗っかって、僕もやります。 以下は、その番組でのリスナーによるスタローン作品ベスト10です。 10位:ランボー 最後の戦場 09位:コップランド 08位:...

 

だけど「大脱出2」や「大脱出3」などは全く見る気もしない、その程度のスタローンファンです。

 

 

そんな僕は実は「ランボー 最後の戦場」も蛇足だと思っています。なぜなら、僕にとってのランボーは中学生、高校生の時にみた「怒りの脱出」であり、「怒りのアフガン」なのです。「ランボー1」も小学生の時に見て、小学生の卒業アルバムに「シルベスター・スタローンになりたい」と書いてしまうほど好きでしたが、「2」、「3」の圧倒的に殺しに回る姿に、中学生は萌えないわけにいきません。なので、ランボーのトラウマや「怒りのアフガン」後のストーリーには全く興味がなかったのです。

 

そして「ロッキー・ザ・ファイナル]で気をよくしちゃったのか、そのすぐに公開されたのが、「ランボー 最後の戦場」。「実際にランボーが乱暴するとこんなにグロいことになる」という描写が話題になり、それだけでなく、「ランボーがついに家に帰った」、ということで、これこそ見事な完結、とまで往年のファンも満足した、という評価でした。

 

ですが、僕にはそれほど面白くありませんでした。グロイのがいい、とは決して思わないし、ランボーが高台で撃ちまくるのは、歳のことや、戦況からして理由は分かりますが、メッセージがめんどくさくて嫌でした。(エンドロールも異常に長くて嫌。)

ジョン・ランボーという漢

ランボーは「1」から「3」までは「それでも国の為に戦う」、と言う漢でした。特に「2」では「今度は勝てますか?」と任務に就く際、トラウトマン大佐に聞きます。

 

 

そう、彼は壊れているのです。

 

「1」はある意味わがままで爆発、「2」は仲間のため、「3」は恩師(元凶ともいう)のため、と最終的には「国のためでなく」、極めてパーソナルな理由で戦いました。通してランボーのキャラクターは「国のため」とはいうけれど、殺人マシーンにされた漢の、どこか人情的な部分が物語を進めている、というところに熱いものがあったのです。

 

ランボーという漢は「1」から「3」を通すと、自身は殺人マシーンの素質はあったかもしれないが、トラウトマンのもとで「殺人マシーン」にされた。でもランボー自身はそのおかげで生き延び、生きるすべを身につけた。

 

トラウトマンは「悪」であり「正義」でもあったわけです。

 

飼いならされた男の、やり場のない怒りなのか、すでにマシーンとして、感情を持たない漢となったのか、その揺らぎがランボーの心の中にあるのです。

 

トラウトマン大佐との関係

そういった二人の関係が「1」から「3」のドラマの根底にありました。僕は「1」でよく言われるベトナム戦争後遺症もの、というより、トラウトマン大佐との関係こそがランボーシリーズの最大の見所なのです。

 

「3」は共闘するため、その二人の微妙な愛憎関係が薄れてしまっているので、僕の中では評価は下がりますが、ランボーの「のんびりしたい」が「食うために(だけでなく)戦う」といった姿は「3」の冒頭で描かれ、トラウトマン大佐の申し出を断るが、ヤバイ状況になると、助けに行く、(戦いたい)という相反する感情に揺れているのです。

 

ランボーシリーズは「1」だけ評価が高く、あとは筋肉バカ映画と言われますが、シリーズ通してみると、ちゃんと深いし、その深さをスタローンはちゃんと表現できていると思います。

 

そんなトラウトマン亡きあとのランボーはどう過ごしてきたのでしょうか。

 

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「最後の戦場」ではランボーは自ら「生まれながらの殺人マシーンだ」と自分に言い聞かせます。あまっちょろいが、ボランティア団体の真摯な姿勢に打たれたのか、助けに行く際、彼はそう言い聞かせます。

 自身を奮い立たせるためかもしれませんが、ここでの彼はまだ自分を受け入れ切れていないのです。
 「最後の戦場」の背景には、ランボーシリーズの、「裸で無双」といった描き方、特に「3」の「間違った背景設定」が大きく影響しています。
 「戦場はなくならない、何をしても変わらない」といった、「最後の戦場」での最初の主張は、シリーズにおけるランボーの活躍が何も得るものはなかった、と言っているようなものです。
 トラウトマン大佐亡きあとは、「のんびり」と数十年過ごし、戦う相手は「(食うために)コブラ(笑)」、と「戦う度」は明らかに無くなっています。
 そこにあまっちょいボランティアの申し出で、真摯な姿勢を見せたところで、船を出すでしょうか?あんなに散々「無駄な闘い」、「むしろアメリカの敵の支援に回る闘い」を繰り広げて、「闘いはなくならない、変えることはできない」といった境地に達した男が、女の熱意に負けるでしょうか。
 ぼくが「最後の戦場」が気に入らないのは、自身の殺人マシーンである姿が「生まれながらの」としていることと、と彼自身が船を出したことです。
 もちろん、救いに行く理由は分かります。
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか」。
 殺人マシーンのような自分たちができることはそういうことだ、とこれは十分な理由だと思います。(船を出した責任もありますしね)。
「最後の戦場」のラストについて
 ラストでうちに帰る画はよいのですが、「生まれながらの殺人マシーン」と言っていたのに「今回も生き延びた」のですから、帰ってはいけないとも思うのです。
 帰った、ということは、彼らを救うことで「生まれながらの殺人マシーン」である自分を捨て去ることが出来た、ということなのです。
そして「ランボー ラスト・ブラッド」
のはずですが、家に彼は延々としたトンネルを作っていました(笑)。そして舞台は当然そこになるでしょうから、「家=home」が「戦場」になるわけです。
彼はまだ壊れているんですね。
老人ランボー
 ランボーが家に帰って、家業を引き継いでしばらくたっています。お手伝いさんやその孫ともまあ数年あれば、仲良くなれるでしょう。
しかし、まあ、ペラペラペラペラとしゃべる、しゃべる。これではロッキー・バルボアと変わらない。せめて「エクスペンダブルズ」のバーニー・ロス以下の口数にしてほしい。
 いきなりがっかりです。
 また、本作の老人ランボーは薬を常用しています。痛みに弱くなったのか、いずれにせよ生への執着です。彼らとの共生生活で生きる希望、執着を感じ取れます。が、これも描写が弱い。
今回の敵
 僕は今回の本が最近できたものではないと思っています。「最後の戦場」公開後からずっと噂されていたその続編。それはメキシコを相手に、と当時のハヤリの敵としたものだったはずです。
 一部の民族を敵にする、ランボーはどこでも戦う、今度は宇宙人だ、と散々揶揄されてましたが、そのスタイルは変わらない。ラジー賞一直線のその姿は潔いと思います。
 だが、今回はそれだけでラジー賞ノミネートではないと思います。もちろん「ランボー」=「ラジー賞」といったお祭り前提だとも思いますが、やはり出し遅れ感と蛇足感が甚だしいからだと思います。
メキシコが舞台の復讐もの
今回、ランボーは自分を「ペラペラしゃべるおじいちゃん」にしてくれた女の子を救うために単身メキシコに乗り込みます。「自分のために」、「仲間のために」といった闘いの理由は従来通りですが、そんなことは分かっているのですから、乗り込むまでが異常に長く感じます。
 むしろ、そこに感情を乗せるのであれば、女の子が小さかったころや、家に帰った直後のランボーの眠れぬ夜を描く必要があり、そしてせっせと「例のトンネル」を掘る描写が必要です。それを女の子が一人勝手に父親探しにいく描写ばかりで、どんだけ女優推しなのか、と思ってしまいます。
メキシコが舞台で復讐劇で真っ先に思い浮かぶのが、デンゼル・ワシントン、ダコダ・ファニング主演、トニー・スコット監督の「マイ・ボディガード」。こちらは丹念に裏稼業を抜けようとする男が優しさや温かみを教えてくれた女の子が誘拐されるまでしっかりと描いたため、後半の復讐劇がとてもアツイものになってました。
 一方、本作にはそれがなく、「メキシコ怖いとこ」、ばかり強調されているので、一人でメキシコに行った女の子はバカ、としか思われないので、ランボー何しに行くの?とまで思ってしまうわけです。
 また常用していた薬を捨てることからも、生への執着はなくなったことが分かりますが、飲んでた薬の効果が分からないため、覚悟が伝わりません。
グロ描写
 ランボーの乱暴をリアルに描いた「最後の戦場」とは意味が違います。今回のはただ「乱暴」な殺人シーンを見せたいだけです。トラップを張って敵をはめるとご丁寧にとどめの一発。ラスボスにはいつでも殺せた、と言うが、そんなことをわざわざ言うランボーだったか。確かにランボーは過去作にも「無線で決め台詞」がお約束でしたが、それは生きて帰る、戦いに勝つたために自身を奮い立たせるものでした。それを聞く僕らは「カッコイイ」と思うのですが、なんだか「いつでも殺せた」とか「心臓を抉り出してやる」はなんだかなあ、と思います。
 これでは単なる快楽主義者ではないでしょうか。これを「戦争の悲劇、犠牲者」というのは見当違いです。
ラストの見解
 闘いの後、ランボーは椅子に腰かけるのです。そしてエンドロール。エンドロールは過去作のシーンをつなげて、タイトルが出るときは「怒りのアフガン」(よりによって)の馬に乗ったランボーでした。
 「ランボー、死んだ?」
 撃たれて死んだ、薬をやめたせいで死んだ、疲れて死んだ、老衰で死んだ。
 まあ、いくらでも思いつきますが、いずれも描写不足ではあります。そしてそのあと、そのランボーが馬に乗って去っていきます。生きているようですが、その描き方だとやっぱり死んでるのかもしれません。
 つまり、求められれば(自身が作りたければ)帰ってくる(生き返ってくる)わけです。
あえて言う観どころ
 とあんまりどころか、全く評価できない本作ですが、それでもいいところはあります。
 武田真治さんの吹き替え
 意外とハマってました。少しまともでかなりの部分でイカレている、のはなんとなく武田さんにあってます。
さいごに
 と、さんざんではありますが、ランボーを演じてきたのはスタローンですので、これはランボーではない、という気はまっさらありません。
 「駄作として貶すか、蛇足として楽しむか。お前が決めろ。」
 僕は
 「駄作として貶すし、蛇足として楽しめなかった。」
 でも次作も見に行きます。なぜなら、スタローンが好きだからです。

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