他人の評価を聞いて映画を見に行くことは基本的にありません。いや、評価を聞く前に観に行っているほうが多いから、と言ったほうが正解かもしれません。
当時先日某ラジオの映画コーナーで、パーソナリティが絶賛していた。信じられないくらいの絶賛で、その監督の集大成とまで言い切っていました。
そうか、「CURE」以外はまるで鑑賞した記憶もなく、そこまで思い入れの強い監督さんではないのですが、まあ、集大成というのなら、と鑑賞。
後でさんざんこき下ろすことになりますが、その前にある記事の黒沢清監督の言葉を掲載しましょう。
「映画で”リアル”とされるものって本当に”リアル”ですか」とも思うんです。≪中略≫人が何が”リアル”か勝手に判断しているんじゃないかって。それってただの”安心”だと思うんですよ」
なるほど、全くそう思う。おっしゃる通りだ。人は自分の知っている世界をリアルと言う。それ以外の価値観、もっと言うとそれ以外に外れる人間は自分の世界からは「リアル」ではないだろう。
だが、そんなことは「リアル」に生きている僕たちからは当たり前。人が恐怖するのは、リアルの中にあるほんのわずかな「リアルでないもの、安心で無いモノ」。
「安心」があるからこそ、また「安心」と思い込んでいるからこそ、「恐怖」は増長し、「理解」を超えた恐怖は「恐怖」として存在する。
この映画ははじめから「リアル」から逃げています。絵空事を言い訳にすらしており、何も説明しない、できない、する気もない。
「CURE」は萩原聖人と役所広司の演技に救われているようなものだったし、題材はそれと何も変わらない。しかし、世間はすでにそこに描かれた「人の内なる不満」「それを引き出してくれる期待と恐怖」のストレスはとっくに様々な悲惨な事件で知っている。
そのことを分かっていないのか、黒沢清は「CURE」の15年以上も前から変わっていない。停滞している。
役者にしてもそうだ。
香川照之の怪演?ここでの彼の演技には何も感じない。この男の行動に何一つリアルがないから、「恐怖」など感じるわけがない。
かみ合わない会話など、僕達の「リアル」では当たり前だ。
たまたま同時期にサイコ・キラーを描いた「ヒメアノ~ル」を見るといいです。人は「壊れるもの」「再生できるもの」「人が壊してしまうもの」と人は願いたい、思いたい。だが「完全に壊れたもの」「完全に壊れてしまうもの」も存在する、ということを登場人物で描いた傑作。
ホラー映画ファンほど、なぜか黒沢清の「名前」で評価する。ホラー映画ほど、革新的なことが予算的にも可能なジャンルはない。なのにこの程度のもので、ありがたがるからホラー映画はダメなんだと思うのです。
そのうえこの映画、ホラー映画の免罪符の一つである笑いもありません。
あの犬が一番理解できない「リアル」な恐怖です。飼い主夫婦を棄てて少女と逃げちゃうんだもの。笑いどころと言えばここでしょう。
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