「レディ・プレイヤー1」
劇場公開日 2018年4月20日
以上。
と言って記事タイトルで全部言い切っちゃったんで、終わらせてもいいんですけど、なんせ相当スピルバーグが時間をかけて作ったみたいだから、もう少し書きます。
「レディ・プレイヤー1」
(「READY PLAYER 1」の英語表記のタイトルのほうが、GAMEっぽいんですがね)
本作、スピルバーグが「未知との遭遇」の次に、完成まで時間がかかった作品とのことだが、早撮りの彼のこと、時間がかかった理由は「版権」と「CG製作」。つまり、彼の偉大なるキャリアからして、クオリティやオリジナリティとは対極にある部分を占めているといっていい。
序盤のカーレースシーンで、もうこの映画に「宇宙戦争(2005)」で見せてくれたような恐怖にまみれたカーアクションはどこにもなく、なんら新しいモノだけでなく、これまでのキャリアで見せつけてくれた革新的な画の再現すらできていないのだと、期待して観るのを早々にあきらめてしまった。
舞台が仮想現実ということで、そこで行われるアクションはCGまみれで、全く迫力の無いモノ。それはそれでいいのだが、それを逆手に取ったりしないのが悲しいのだ。そこに繰り広げられる仮想世界はみんなが観てきたモノ。
そこでデロリアンが走ろうとも、集めて喜ぶだけのコレクターのごとく、登場させることに何ら必然性のないガジェットに、かつての映画少年だった僕ですら、全くときめかなかった。
もうネタバレ解禁してもよかろう、ガンダムにしてもそうだ。「出す」ことだけを満たせばいいかのように、まったく「見栄」を切らない登場に何の価値もない。僕たちはこのガンダムを観たかったのだろうか?出してくれてありがとう?出すなら出し方があるだろう。カタパルトぐらい乗せてほしい。
お気に入りの「シャイニング」にしてもそうだ。さすがにROOM237には膝を打ったが、やるなら、CGでもニコルソンを出してほしかった。
こういう痒い所、届いてほしいところに手が届くことこそが才能であり、それがもはやできていないことが、スピルバーグの今の「限界」を意味しているように思えて仕方ない。
確かにこれも近年の作品と同様に、「スピルバーグでしか撮れない」映画。だが、近年の作品と同様に、「本人でないと撮れないものを撮ること」「残すこと」だけが創作の推進力としかなっていないようなものがあまりにも続きすぎる。
こういったものは製作にまわって、若手の真正オタク監督にまかせればいい。
使っている楽曲も、僕の年代的にストライクな曲ばかりですが、これもやっぱりいかにも、「集めました」なものばかりで、鼻につく。使い方もなんだか、曲自体にも愛情があるように見えません。
スピルバーグはもう「撮らないといけない」映画を撮らされている、あるいは自分で撮らなければいけないと勝手に使命感を抱いている創作活動はとやめて、早く本気のホラーを撮ってください。
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